【読書メモ】フェイスブックインパクト(高広伯彦ほか)

何にでも興味を持つ私の友人が、今から10年以上前に、アマチュア無線の免許を取ったことがある。その時、この友人から聞いた話が非常に面白く、今でも記憶に残っている。

誰かと交信してみようと、あれこれ周波数を合わせてみるのだが、彼の免許では、それほど遠くまでは交信できないせいもあってか、受信できるのは、どうやら近所に住んでいると思われるグループの交信ばかり。そこには「マドンナ」と祭り上げられているリーダー格の女性がいて、彼女を中心に、無線の機材や技術の話が毎晩、無線を通じて、延々と続くのだそうだ。

ソーシャルメディアやTwitter・フェイスブックについてネット上で交わされている会話を聞いていると、この話を思い出す。

確かにソーシャルメディアを活用したマーケティングやコミュニケーションの方法・戦略を考えるよりは、フェイスブックのファンページを作り方といった話の方が、遙かに簡単で、分かりやすいから、ノウハウ化しやすく、そして、サービスとしても仕立てやすい。

最近では、ソーシャルメディア専門の「代理店」--- 何を「代理」するのかはよく分からないが--- といった会社が表われて商売が出来ているのも、そうした背景があるからなのかもしれない。

一方、本書は、そうした「ノウハウ」が書かれた本ではない。というか、「フェイスブックインパクト」という題名のわりに、フィエスブックに特化して書かれていることは、それほど多くはないという印象を受ける。

実際、紹介されている事例も、フェイスブックありきの企画といったものではなく、マーケティングやコミュニケーション戦略の中で、ソーシャルメディアがどのように位置付けられ、更にその中で、フェイスブックやTwitterが、どのように組み込まれていったのか、といった話が中心である。別に、次世代マーケティングの担い手として、フェイスブックが礼賛されている訳でもない。

むしろ、本書を貫いている中心的なテーマは、著者の一人である高広伯彦氏が執筆した最終章にまとめられている通り、日本と西欧における「社会」と「個人」の関わり方の違いなどに注目しつつ、「そもそもソーシャルとは何なのか」「日本ではなぜ匿名利用が好まれるのか」「そうした土壌でフェイスブックが根付くための条件とは何なのか」といった点についての論考にある。

「ソーシャルメディア原論」といったタイトルの方が、本書の内容には合っているような気もするが、おそらく、それでは多くの人に手に取ってもらうことは難しいという営業的な判断もあって「フェイスブックインパクト」というタイトルが付けられたのではないだろうか。もちろん、これは勝手な想像だが。

そういう意味では、出版社が、この本に「フェイスブックインパクト」というタイトルを付けたくなってしまうところに、我が国の今日的な状況が端的に表れている、といったら大げさだろうか。

【読書メモ】次世代マーケティングリサーチ(萩原雅之)

萩原 雅之
ソフトバンククリエイティブ
¥ 1,680
(2011-03-03)

本書の冒頭に『柔らかい個人主義の誕生(山崎正和)』からこの一節を引用した著者のセンスに、まずは脱帽。

"消費者の需要を探すこと、いひかえれば、現代社会の趣味を発見することが生産者の仕事になったとすれば、要するに、それは生産者が消費者の代表になったといふことであり、生産者が本質的に消費者と同じ仕事をし始めた、といふことにほかならない。"

今から20年以上前、学生時代に読んだこの本が、『マーケティング3.0』や『グラウンズウェル』で提唱されている「傾聴による消費者理解が求められる時代」の到来を既に予見していたのだという気づきを得ただけでも、読む価値のあった一冊である。

本書の大きなテーマは、今後、マーケティングリサーチは、「設問に答えさせて、そこから消費者の意見を吸い上げる」という"Asking"から、ネット上に残された人々の発言や行動から、消費者自身も気づいていない欲望、即ちインサイトをくみ取る"Listening"に進化していくという点にある。

そして、Listeningを可能にするのは、ソーシャルメディアの普及と、それを支える技術やデバイスの普及であり、既に、いわゆる伝統的な調査会社ではない企業が、マーケティングリサーチの領域に参入している。

これはソーシャルメディアの普及が、マーケティングリサーチというビジネスの「中抜き」を後押ししているということであり、『今後はリサーチャー自身もソーシャルであることが求められる』という、自らも経験豊富なマーケティングリサーチのプロである筆者からの提言は、それこそ「傾聴」に値するのではないだろうか。

また、最後の章では、日本のマーケティングリサーチへの投資が、先進各国に比べて著しく低いことや、更に、リサーチ業務の発注の多くが、企業ではなく広告代理店から行われているといった、我が国のお寒い現実が、データと共に紹介されているのも興味深い。

「天罰」よりも「我欲」について考えよう

震災後の石原都知事の「天罰」発言が物議をかもしたのは、まだ記憶に新しい。



ただ、個人的には、この問題は(相当有名で、かつ万人に愛されているとは言い難いキャラを貫いている)都知事という立場にある人が、一般大衆やメディアの反応もよく考えずに「天罰」という言葉を使ってしまったという「広報的な失策」であると考えている。

一方、発言のポイントである「日本人のアイデンティティとなってしまっている我欲を、この津波を機に、1回洗い落とす必要がある。」という問題提起については、「けしからん」で片付けてしまうのではなく、真摯に受けとめ、考えてみる必要があるんじゃないだろうか。

実際、この発言を非難しながら、多くの人は、まさに「我欲」丸出しで、乳幼児がどうなろうが知ったこっちゃないとばかりに、水の買い占めに走っている。

ネットを見ていると「こんな時期にXXをするとは不謹慎」「こんな時に電気を煌々とつけているとはけしからん」などといった発言も多く飛び交っているが、これもまた「被災者に同情し、そして支援・復興に協力していると思いたい」という、被災していない人々の「我欲」を満足させたいがゆえの、どうでも良い話だ。

一方で、企業や団体も、「不謹慎狩り」に遭いたくないという「我欲」から、これまた後先も考えず、イベントもCMも「何でも自粛」で思考停止している。

センバツ高校野球の開会式の入場行進が無くなったのも、震災を受けた簡素化だというから呆れるしかない。出場を勝ち取った高校生たちの晴れ舞台に水をさして、自粛ムードに浸って悦に入っている人たちが「我欲」を満たしているという異常な光景。

最近、テレビで被災地の様子を映すとき、テレビは、判で押したように「いま、私たちに何ができるのか?」というタイトルを付けるが、これに至っては、ほとんど偽善じゃないかとすら思える。

日本人の我慢強さや礼節を褒め称えている海外メディアもあるらしい。そして、それを読んで悦に入っている人たちの「我欲」がまた満たされているのかと思うと、これを洗い流すのはなかなか難しそうだ。

【読書メモ】キュレーションの時代(佐々木俊尚)

震災後、自宅の水も停まり「プチ被災」状態にあったこともあり、しばらくの間、ちゃんと本を読む気分にはなれなかったのだが、私の会社のアドバイザーにもなって頂いている佐々木俊尚さんの最新刊『キュレーションの時代』で読書を再開。(と、このブログを書き始めたら、突然「計画外」の停電が。。。)

本書のテーマでもある「キュレーター」というのは、簡単に言うと「目利き」のような人たちだ。

たとえば、美術の世界においては、誰の目にも触れることなく埋もれていた芸術的価値の高い作品を発掘して人々に紹介をしたり、あるいは、既に知られている芸術家の作品を、独自の視点やコンテキストに基づいて整理・収集することで、作家や作品に対して、新たな見方を提供する。そんな人たちのことだ。

佐々木さんは、本書の中で、インターネット上に溢れる膨大な情報の中から、自分に関係のある、あるいは興味・関心を持てそうな情報を入手するためのフィルタとなる人(あるいはツール)を「キュレーター」と呼んでいる。

インターネット上には(もちろんリアルの世界にも)、それぞれ独自の「視座」から情報やコンテンツを拾い上げたり、整理している人たちが沢山いる。その中から、興味をもった、あるいは共感できそうな「視座」を持った人を選ぶ(=本書では「チェックイン」という言い方をしている)ことで、そういう人たちが自分にとっての「キュレーター」になる、ということだ。

面白かったのは「ソーシャルメディアで好きな人とだけ繋がってたらタコツボ化するぞ」という、よくある批判への反論。

たとえばTwitterで誰かをフォローするということは、その人の「視座」でモノや情報を見てみようとすることだ。今なら、原子力や放射能の問題について発言している大学の先生などをフォローしている人も多いだろう。だが、この先生が、朝から晩まで原子力の話しかしないとは限らない。むしろ、時には、最近食べた料理の話や映画の話をすることもあるのが普通だ。

あるいは、原発について検索した時に見つけたブログのエントリー。それは間違いなく、原発に関連する内容のはずだが、そのブロガーがいつも原発のことばかり書いているとは限らない。そのブログをRSSで購読していくうちに、その人が良いと思った本や映画の話が出て来て、それに自分も興味を持つかもしれない。

こういう視座の「ズレ」こそが、セレンディピティ、即ち偶然の出会いや発見をもたらす、だから、タコツボ化なんて、起こらないという訳だ。

昨今、ソーシャルメディアが検索を代替するといったことを言う人が多いのだが、これも「タコツボ論」の延長線上にある議論といえるだろう。上述の通り、特定のブログエントリーを探すのに適しているのは検索エンジンであり、一方、そのブロガーをフォローすることで、新たな発見を得られるのがソーシャルメディアのもたらすメリットだからだ。

一方、佐々木さんは、検索連動型広告以後、インターネット広告における目立ったブレイクスルーがないという焦燥感が、「次はブログマーケティングだ」的な煽りにつながっていると指摘しており、この「脱検索」「これからはソーシャル」といった議論も、そういうコンテキストで読むと納得がいく。

なお、蛇足ながら、この脱検索論への反論については、私も会社のブログにちょっと意見を書いているので、ご興味のある方はこちらもどうぞ。

【コラム】それでも検索はなくならない(と思う)

ところで、本書の118ページに出てくる「検索連動型広告のビジネスをしていた友人」というのは、たぶん私のことじゃないかと思っているが、今度、佐々木さんに会ったら、聞いてみようと思う。そして、私の眼鏡も、すべて福井の田中眼鏡本舗であつらえたものだ、と付け加えておこう。

震災後の尋常じゃない日常

3/11(金)に発生した大震災から一週間が経った。

阪神大震災の時もそうだったらしいが、被害の程度がひどいところほど情報が入らず、この結果、外からは、時間の経過と共に、被害の程度や大きさが「拡大」しているように見える。

「らしい」と書いたのは、私自身、阪神大震災の時には、神戸市東灘区にいたため、震災から一週間は、震災がどのように報道されていたかをほとんど知らないからだ。

ちなみに、私は当時、勤めていた会社の独身寮が、後に「半壊」と認定される被害を受け、震災から数ヶ月、居所を転々とするという経験をしたが、家族や親戚を失ったり、あるいは倒壊やその後の火事で家や財産を失った方々に比べれば、遙かに程度の軽い「被災者」である。

ただ、当時はいまのようにワンセグやTwitterなども無く、被災地の中心にいた私は、ほとんどメディアの報道からも隔離されていた。あの阪神高速が横倒しになった映像を見たのも、震災から一週間後だった。

この一週間、Twitterなどでは、直接被害を受けていないと思われる人たちの間で、自粛だの不謹慎だのといったやり取りが行われているのも目にするが、被災地の「中の人」からしてみれば、おそらく、そんなことはどうでも良い、というか知る由もないのではないか、と思う。

さて、阪神大震災の時に話を戻そう。地震から2時間ほどして周囲が明るくなると、半壊した独身寮の回りにある木造住宅が、ことごとく倒壊しているのが分かった。それまで、まったく関心もなかったのだが、そうした家には、独居老人がたくさん住んでいたことを知った。震災から数時間して、かけつけた家族・親族たちが、瓦礫の前でなすすべもなく、独身寮から出て来た我々「若者」たちに、じいちゃん、あるいは、ばあちゃんが埋まっているから、助けてくれ、と声をかけてきたからである。

着の身着のままで、私も、さっそく「救助」に向かったが、スコップやノコギリはおろか、軍手も無い状態で、できることは限られていた。ジャージにスニーカーを履いただけの足には、倒壊した家からむきだしになった釘やガラスが容赦なく刺さってきた。いま、テレビでは、「ボランティアに行くなら、充分な装備を」と言われているが、本当にその通りだと思う。

ちなみに、2階建ての木造住宅の場合、たいてい崩れるのは1階部分だ。しかも、斜めに倒れるので、残った2階部分から家に入っても、「階下」の部屋は斜め下にある。そこに、声をかけながら、ほとんど素手で掘り進んでいく。その結果、何人かを見つけることができ、畳や戸板に乗せて近所の病院に運んだが、残念ながら、既に事切れている人も居た。運んだ病院も、映画でみた野戦病院さながらの風景だった。病院の前の道路には、毛布にくるまれた遺体もたくさん並んでいた。

震災初日が暮れると、我々は近所の小学校の体育館に避難することになった。だが、当時の勤め先は銀行で、当局からは、地域金融の安定化のために、一日も早く営業を再開せよ、というオーダーを受けていたため、私も、その夜のうちに、銀行に「招集」された。東灘区の避難所から、神戸の中心(旧居留地)にある職場には、車で向かったが、当然、外は真っ暗で、道をふさいでいる倒壊した建物の瓦礫をよけながら、ゆっくり走るしかなかった。

途中、何カ所か、川や線路を渡る橋もあったが、本当に車で渡っても崩落の危険が無いのか知る由もない。とりあえず、車から降りて「途中で橋が切れていない」ことだけを確認して、おそるおそる渡った。

思い起こせば、震災後の暗闇の中で、まっさきに探したのは眼鏡とサイフだった。だが、その後、しばらくの間、サイフを使うことは無かった。なぜならば、周囲にあいている店などなく、あいていたとしても、買う物は何もなかったからだ。だから、翌朝、被災地のど真ん中で、必死の思いで開けた銀行にも、ほとんど来る人はいなかったわけだが。。。

そして、独身寮に住んでいた我々は、それから一週間、銀行のフロアに寝泊まりし、非常食の乾パンと氷砂糖、水で食いつなぐことになる。でも、震災直後の興奮もあってか、この時よりも、むしろ、ある程度、状況が落ち着いてきてからの方が、感じるストレスは大きかったような気がする。

相変わらず、交通網は寸断され続けていたし、神戸の町の中には、瓦礫が散乱している。崩落した飲食店街のビルからは異臭や埃が漂い、マスクなしでは歩けない。だが、そうした中、避難所や移転先、あるいは半壊した自宅から、毎日、職場に向かい、普通に仕事をしていかねばならないという現実。片道2時間以上かけて会社に通うことからくる疲れや、震災が徐々に「過去のこと」となりつつある神戸以外の人たちと話す度に、その温度差に、ちょっとずつ、心がヒリっとしたり。。。

そんな「尋常ではない日常」が続く中、気持ちが暖まるのを感じた瞬間があった。それは、毎晩、通勤のために歩いていた真っ暗な道に、たぶん焼肉屋さんだったと思うが、店先に木箱と板でテーブルを作って仮営業を始めた時だ。おそらく店の中は、めちゃくちゃになっていた筈だが、それでも、外で営業を始めた。

もう二度と復旧なんてしないんじゃないか、と思わせるような風景の中で、よく理由は分からないが、震災の中、黙々と家と職場を往復する人々の多くが、店先で暖をとるために焚かれた一斗缶のたき火に、ほのかな「希望」を感じたんじゃないだろうか。

もちろん、この店は、神戸の人びとを元気づけようという思いで、商売を再開した訳じゃないだろう。飲食業は、日銭商売だから、再開が一日遅れれば、その分だけ苦しくなる。それでも、みんなは、店の明かりに希望を感じたのだ。

今回の地震で被害を受けた地域は広大だ。津波も加わり、おそらく神戸を上回る被害になっているのは間違いない。だが、それでも、遠くない未来に、被災した人たちにも、間違いなく、尋常じゃない日常がやってくる。

避難所にいる人たちに食糧や水、重機を送って支援することは、外の人にもできる。だが、壊れた家や店、工場、会社やビジネスを建て直すのは、被災した人たちが自らの手でやるしかない。だが、そうやって、社会や経済の色々なところが、ちょっとずつ修復され始め、それが点から線、面のように広がることで、本当の再生・復興が進むのだと思う。

これから始まる、気の遠くなるような再生・復興のプロセスが、できるだけスムーズに進むよう祈るしかない。そして、その中で、自分にできることは何なのかを考えていこう。

【読書メモ】地下鉄は誰のものか(猪瀬直樹)

都営地下鉄との経営統合に反対する東京メトロ。この「抵抗勢力」との戦いの記録なのかと思って買ってみたが、その点では、ちょっと肩すかし。おそらくは、著者が推進する東京メトロと都営地下鉄の統合について、今ひとつ、世論が盛り上がっていないので、そのPR(ないしは問題提起)のために書かれた本なのかな、という印象を受けた。

だが「(都心を走る儲けの約束された)地下鉄利権」を巡って、東急グループの創始者である五島慶太が、戦前、権謀術数の限りを尽くして戦う中で、大東急グループが築かれていくドキュメンタリー、として読むと、非常に面白い一冊。

ちなみに、五島率いる東京高速鉄道は、東横線の都心への「延伸」を狙って渋谷から新橋に向かって地下鉄を堀り、既に浅草から新橋まで地下鉄を開通させていた東京地下鉄道という、もう一つの民営地下鉄会社と新橋で激突。

これを収集して「帝都高速度交通営団」に統合させたのが、後に総理大臣となる佐藤栄作だった、などという話は、今度、誰かと地下鉄に乗った時に、ちょっと話してみたくなる。(笑)

ちなみに本書では、経営統合のメリットとして乗換えの利便性と統一運賃による実質的な値下げが強調されているが、個人的には、もし、経営統合によって24時間運行への道筋が開かれるなら、ぜひ賛成したい。

都内のカフェやレストランはどこも10:00〜10:30でラストオーダー。これは、おそらく従業員たちが終電で帰れるギリギリの時間なのだと思われる。このため、仕事を終えて、夜遅く食事でできるところといえば、タバコの煙が充満する居酒屋か、さもなくば、ファミレス・マックあるいは牛丼。車で移動していても、たいていの駐車場は、係員が電車で帰れなくなるので、やはり11時くらいで終了。

これじゃ、東京は、いつまでたっても「大人が遊べる街」にはならないと思うのだが。

リスク回避と思考停止

実名での利用が前提であるFacebookは日本人には受け入れられない、という議論をよく耳にする。「日本人は、ネットの決済にカードを使うのをためらうくらいリスクに敏感だからね。」などと解説されることも多いのだが、個人的には、どうも納得がいかずにいた。



オレオレ詐欺や元本保証を謳ったニセの投資話などは、度々、ニュースで、その手口まで報道されているにもかかわらず、その被害は後を絶たない。こうした様子を見ていると、日本人は、どちらかといえば、むしろ、リスクには無防備なんじゃないかと思うことが多い。なのに、なぜ、Facebookを実名で利用することには、それほど慎重になるのか。。。?

と思っていたら、最近、面白いブログのエントリーを見つけた。

日本人は「透明なfacebook」に耐えられるのか

Facebookの普及については、実名 vs. 匿名という問題よりは、日本人の社交性といった要素の方が大きな影響を与えるのではないかといった考察がなされている。

むしろ、実名利用に伴うリスクについては、日本人は「隠したい内容は米国人より多いのに、警戒心は薄い」と指摘している。Facebookを使っている、あるいは使おうとしている日本人は、「見られていること」を前提に、どこまで情報を開示するのかを意図的にコントロールする、という意識が希薄であるというのだ。

全く同感である。

2009年4月とちょっと古いが、このような調査結果もある。

ネットセキュリティに自信の無い日本人

日本を含む、欧米やアジアの主要国において、いわゆる「マルウェア」にあたらないものはどれか」というクイズを行ったものだが、「分からない」と答えた人の割合は、日本人が72%で他国平均の42%を大きく上回っていた。

そう。結局のところ、よく知らないから避けているだけなんだ。まぁ「触らぬ神に祟り無し」という言葉もあるので、一生、触らずに済むなら、それも良いだろう。

だが、避けてばかりいるために、本当のところ何がリスクなのか、リスクはどこにあるのか、といったことは分からないままになる。その結果、知らないうちに、無防備にリスクに近づいて、大怪我をしたりする。あるいは、自分の親や子が、危ない橋を渡ろうとしているのに、そのリスクを察知して、助け船を出すこともできない。

ライブドア事件の時、退職金を全て同社の株にすべてつぎこんで「紙クズ」になってしまったという老人が、たびたびニュースには「被害者」として登場した。だが、そもそも、老後の生活資金をベンチャー企業、それもたった1社の株式につぎ込むというところに、リスク感覚の欠如が垣間見える。

かと思えば、株は危ないし、外貨も為替リスクがあるからと、どんなに金利が低くとも、円建ての銀行預金以外には預けないという人が現れる。これって、リスクを回避しているのでもコントロールしているのでもなく、単なる思考停止じゃないかと思う。

情報漏洩のリスクがあるから、PCの持ち出しは一切禁止。

あれも、思考停止、だよね?

【読書メモ】教えて!カンヌ国際広告祭(佐藤達郎)

私は「検索エンジンマーケティング」という領域で、もう9年近く仕事をしている。これも広告の一つのカタチではあるが、人々が何かが欲しいなと思って、あれこれ検討作業を始め、いよいよ、これはどこに行けば買えるのかな、などと具体的な興味・関心をもって探し始めた人たちを効果的につかまえる、というのが検索に期待される大きな役割である。

一方、みなさんの多くが「広告」と聞いて想像するのは、テレビや新聞・雑誌などに掲載される広告だろう。そして、こうした世界中の広告を集めて行われる「コンテスト」がカンヌ国際広告祭である。カンヌというと、もしかすると映画祭の方がなじみがあるかもしれないが、広告業界の人たちにとって、これは広告界における「ワールドカップ」とも言うべき大きなイベントだ。

私もこれまでウェブサイトで、過去の受賞作(これはバナー広告の例)などは見ていたが、そもそも、モノやサービスを買ってもらうことを促すことが目的である広告を「作品」として評価することにどんな意味があるのか、また、受賞作品は、どういう基準や方法で決定されるのかについて漠然とした疑問を持っていたときに出会ったのが、この本である。

本書は実際に広告祭の審査員となった著者・佐藤達郎さんが、自らの経験を、臨場感溢れるドキュメンタリータッチで書かれているので、広告云々を抜きにしても、とても楽しく読める一冊だ。興味のある方は、ぜひ手に取って読んで頂きたい。

個人的には、広告表現に関する考え方について、日本と世界の「常識」の乖離がどこにあるのか、という点に関する著者の論考が非常に興味深かった。

日本でも世界でも広告における「シンプルさ」が重要とされている点は同じなのだが、著者によると、日本では「表現のシンプルさ」が重視されるため、例えば「1コマ目から商品が登場するようなCM」が分かり易くて良しとされる傾向がある。

これに対し、カンヌで評価される広告とは「メッセージのシンプルさ」であると。だが、そのシンプルなメッセージを記憶に留めてもらうための表現には、一見すると分かりにくいと感ずるほどの「ヒネリ」を加える。筆者はこれを「ナニコレ?のちナルホド!」という書き方で説明している。

実際、欧米の広告会社では、伝えたいメッセージを決めたら、そこからもっとも遠いところからアイデアを考え始め、途中で意味の転換を行い、メッセージに収束させるという発想の訓練を行うのだそうだ。そして、この「落差」が大きいほど、受け手には強い印象を残すことができる、という訳だ。

日本の広告にはこうした「謎解き」の要素が少なく、特に新聞・雑誌や屋外広告などでは、その傾向が顕著であるため、カンヌでもほとんど評価されないらしい。

この話を読んで、2009年の夏にサンフランシスコの街で見かけた、パトロンという高級テキーラの屋外広告を思い出した。時はまさしくFacebookがMyspaceを抜き去り、ソーシャルネットワークサービスの盟主として「独走」を始めていた頃。「SOCIAL NETWORKING」というコピーに思わずニンマリ。。。




MBAとは教習所なり

最近は日本の大学でもMBAプログラムを提供するところが増えてきたので、ご存じかと思うが、MBAとは、Master of Business Administrationの頭文字を取ったもので、日本語に訳すと「経営大学院」といったところか。

確かに制度上は「大学院の修士課程」であり、卒業すれば、一応、修士号という学位がもらえることになる訳だが、私が知る限り、MBAを取得するのに修士論文の提出を求められることは無い。つまり、MBAは2年間の「学究成果」に対して与えられる学位、というものではない

学校によってバラツキはあるだろうが、MBAのカリキュラムは、まず1年目で経済学・統計学・会計学・マーケティング・組織行動論といった科目を超特急で履修する。最近では、デザインや商品開発などを科目に加えるプログラムもあるようだが、いずれにせよ、こうした科目は、経済学者やデザイナーを養成するためにある訳じゃない。

内容的には、それぞれ学部レベルで履修する程度のものだ。だが、ともかく、MBAに入った限りは、出身が文学部だろうが理工学部だろうが、大学で経済学や統計学あるいはマーケティングを専攻した連中と同等レベルの知識を1年で習得することが求められる。

MBAを卒業した後は、企業の経営者もしくは幹部として、例えば、会計学を専攻して経理部門に配属になった部下が作成した財務諸表や、統計学を専攻した部下が出してくる市場調査のデータを見て、それを理解した上で的を得た質問をし、そして正しい経営判断を行うことができるようにするためだ。

そして2年目は、1年目で習得した知識やMBA入学までの職務経験などを総動員しながら、企業のケーススタディを通じて、経営者としての模擬訓練を行う。教材は、実際の企業に取材して作られた様々な「実話」だ。

医療品メーカーの売上減少や、重機メーカーの多国籍展開に伴う組織や人事の問題、なかにはイタリアの現地法人が役人から公然と賄賂を求められたが、国際部門の責任者であるあなたならどうする?といったものまで、内容は多岐に渡る。その他、私が卒業したジョージタウン大学では、「ビジネスコミュニケーション」というクラスもあり、そこではもっぱら、プレゼンの作法やビジネス文書の書き方などを叩き込まれる。

だからMBAは、学問をするところではなく、卒業後、企業の経営について、最低限の舵取りができるような経営幹部候補を養成する「教習所」なのだ。

ちなみに、ケーススタディに正解などはない。成績は試験や、クラスでのディスカッションにどれくらい貢献したかといった要素で決まるが、奨学金をもらっているヤツでもない限り、成績もそれほど重要ではない。これも、自動車教習所と同じだ。卒業できなきゃ困るが、教習所での成績なんて免許を取ってしまえば、全く関係ない。

誤解の無いように言っておくが、教習所であることが問題だとか、MBAに意味がないなどと言っている訳ではない。むしろ、反対に、日本のビジネスパーソンも、こうした「教習所」にもっと簡単に通えるような環境が必要ではないかと思っている。

アメリカには、ハーバードやスタンフォードだけじゃなく、MBAプログラムを提供している大学は、地方のコミュニティカレッジのようなところも含めて、山のようにある。2年間、会社を辞めて通うものだけでなく、夕方や週末に通えるパートタイムMBAといったプログラムも充実しているので、数年かけて仕事をしながらMBAを取得する人も多い。

このため、米国の企業では、別にバリバリのエリートでもなく、ちょっとした会社のマネジャークラスの人間でも、コトラーくらいは読んで知っているし、資金調達におけるモジリアニミラーの命題、統計学における最小自乗法や、事業評価におけるNPVやIRRなどの意味についても、知識としてひと通り押さえている。また、説得力のあるプレゼンをするためのスライドの作り方や立ち振る舞いなども心得ている。

ここから先は私見になるが、日本企業のホワイトカラーの生産性が低いと言われる原因の一つには、ホワイトカラーとしての基礎的な素養を習得する機会が乏しいことにあるような気がしてならない。多くの人は、大学を卒業して会社に入ると、その後、体系的な教育を受ける機会が余りないため、知識の習得は、自分が担当している領域におけるOJTが中心とならざるを得ない。

もちろん、書店にいけば、「ビジネスマンのための」などと冠した書籍は山のように売られているので、そうした書物で独習することもできな訳じゃない。だが、MBAのプログラムに乗っかることで、習得できる領域の幅は広がるだろうし、ケーススタディなどを経験することで、知識の定着度も増すだろう。

いずれにせよ、MBAに行こうとすると、仕事や私財を投げ打って、しかも、まずは英語と挌闘した上でアメリカに向かうしかない、という状況はどうにかならないかと思う。

NHK『無縁社会』に思うこと

NHKのシリーズ『無縁社会』を見た。このシリーズは基本的には好きじゃないのだが、見ないであれこれ文句を言うのもフェアじゃないかな、などと思って、ほぼ毎回見ている。

まず思ったことは、回を重ねるごとになんだか『無縁』の定義がどんどん拡大しているんじゃないかということ。

確か最初の頃は「無縁死」のような、割と個別具体的な問題がクローズアップされていたと思うのだが、今日の放送を見ると、仕事があっても無くても、家族と暮らしていても、一人暮らしでも、年を取っていても若くても、ともかく本人が

・誰からも支えられていない
・誰からも必要とされていない

と感じたら、「あなたも立派な無縁!」とでも言いたい感じだった。

少々意地の悪い見方かもしれないが、「無縁社会」を何とかしなければ、という問題提起というよりは、「あなたも気づいてないだけで、実は無縁になっちゃう可能性があるんだよ。」と不安感を煽ることで、番組への注目を高めようという意図があるんじゃないか、とさえ思えるような内容だった。

実際、「なぜ無縁なのか」という話については、「仕事が無い」「やり甲斐のある仕事が与えられない」「介護が大変」など、その理由は多岐に渡る。

もちろん、雇用機会の減少、失業者や非正規雇用者に対するセーフティネットの不備、未婚や少子化、介護保険制度の欠陥等々、今の日本には様々な問題があり、その狭間で社会的な救済を必要としている人が生まれているのは事実だ。だが、それらをすべて「無縁」という問題でひとくくりにしようとするから、議論がおかしくなる。

実際、番組の終盤で、出演していたパネリストの「無縁社会を変えるためには、自分は認められている、と人々が実感できるような社会を創り出すことが必要」と発言に対して、一般の参加者の中から「自己実現だけじゃメシは食えないよ」という反論が出て、議論はグズグズに。でも、今日のテーマは「社会とのつながりを感じられない無縁社会」というココロの問題だったんじゃないの?と思わず苦笑。

Twitter上では「自己責任」を唱えた企業経営者に、「弱者はどうなってもよいのか」「自己中心的で身勝手」といった批判的なコメントも多く寄せられていた。だが、私がみる限り、この経営者は「無縁と感じるかどうか」という点について話をしただけであって、雇用や介護など「社会制度」の問題について「自己責任で解決を」といった訳ではないと思う。

だが「社会とのつながりを感じられるのか」という心の問題と、「雇用やセーフティネットの整備」という制度の問題を、「無縁」というテーマのもとに、無理矢理、一緒に議論するから、こうなってしまう。

やはりNHKには、政治・経済や自然界の「事実」だけを愚直に追いかけるドキュメンタリーが合っている、と思うのは私だけだろうか。

calendar
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< December 2017 >>
selected entries
categories
archives
books
links
profile
search
others
mobile
qrcode