選挙のユーザーエクスペリエンス(UX)

最近、日本でも、ウェブサイトやアプリ、あるいは製品やサービスについても、UX(ユーザーエクスペリエンス)という観点から、その使い勝手やコンテンツ、サービスのあり方などを考えていこうという動きが、徐々にではあるが広まりつつあるようだ。

だが、先日行われた衆議院選挙を見る限り、選挙を管理する国や自治体はもとより、政党や候補者自身も、有権者に対して最良のUXを提供する、という考えはまだまだ希薄なようだ。まあ、ネット広告などを見ても、ユーザーの興味や関心などお構いなく、商品や製品の名前や画像をひたすら連呼し続けているものがまだまだ多いことを考えれば、これは致し方ないのかな、とも思うが。

しかし、今回、史上最低と言われた投票率を高めていこうとするなばら、「有権者の意識」に訴えるだけではなく、政府・政党・候補者たちも、どうすれば、有権者に対して最良のユーザーエクスペリエンス(UX)を提供できるのか、ということを考えていく必要はあるだろう。



2014.12.21 日本経済新聞
衆院選の低投票率 主因は中高年

たとえば、こちらの記事を見ると、近年の投票率低下の主因は若者よりも、むしろ中高年が投票に行かなくなっているためであるという分析が紹介されている。特に興味深かったのは「投票所まで5分未満の場合、投票率は82%だが、20分以上かかると、52%まで低下する。」という一節だ。

高齢者に対して、ネット投票がどれほどの効果を持つかはわからないが、ともあれ、『投票しやすい環境』を整備しないと、人口の高齢化と共に、投票率が下がり続ける可能性がある、という点は注目に値するだろう。

また、政党や候補者のUX改善に向けた取組みにも期待したいところだ。

実は今回、地元の選挙区で小選挙区に立候補した候補者が、選挙広報などを見ても、議員定数削減に関する立場や考え方を明らかにしていなかったので、選挙期間中に、各候補の選挙事務所に電話をかけて聞いてみた。もちろん、応対したのは、候補者本人ではなく、事務所のスタッフなのだが、各候補者からの回答・対応は以下の通りだった。

長妻昭氏(民主党・当選):
「即答できないので、確認して電話をかけ直す。」(12/21時点で回答は無し。)

松本文明氏(自民党・比例復活):
「議員定数削減よりも優先順位の高い課題が多くあるということ。」

太田宣興氏(共産党):
サイトやFBページを見ても選挙事務所の連絡先がわからず電話を諦める。

吉田康一郎氏(次世代の党):
「良く分からない。申し訳ないが、分からない。」

選挙事務所に電話をかけて意見を聞いてみるということを初めてやってみた訳だが、政治家や候補者が、一番、有権者にフレンドリーになると思われる選挙期間中でさえ、この程度の対応なんだなぁ、というのが正直な感想だ。

もちろん、一度のテストで結論を出してはいけないのだろうが、少なくとも、今回の選挙では、一人の有権者として、政治や選挙に主体的に関わってみることで、これまで見えなかったものが見えてくる、と感じさせるような「エクスペリエンス」を体感することはできなかった。

ちなみに私は、今回の衆議院選挙で投票には行ったし、一般論としては、投票という権利は、行使しないよりは、した方が良いとは思っている。それでも、政府や政党・候補者は、選挙における有権者のユーザーエクスペリエンス(UX)を高めることに、もっと努力しても良いだろう。

英語公用語化をしたがる企業ほど実は「日本的」と思える理由

ユニクロや楽天などが英語を社内の公用語にしたことは、メディアでも大きく取り上げられたので、ご存じの方も多いだろう。また、公用語化まではいかなくとも、TOEICで一定の点数を取ることを入社や昇進の条件にしている会社も増えていると聞く。


こうした話は、「グローバル」な視野をもつ企業の「先進的」な取組事例といったトーンで取り上げられることが多いが、果たして本当にそうなんだろうか?

私は、むしろ、伝統的な日本企業のDNAが強く残っている会社ほど「英語公用語化」が必要になっているように思えてならない。

その理由は大きくわけて3つある。

(1) ゼネラリスト志向

海外拠点で採用した現地のマネジメントやスタッフとコミュニケーションをすることが必要なら、海外拠点を統括する立場にある部門に英語のできる人材を配置すれば済む話だ。

だが、終身雇用を前提とした日本型の組織においては、幹部候補になればなるほど、「多様な経験を積む」という名目のもと、様々な部門を渡り歩かせることになる。だが、もし、その人材が英語ができないと、海外拠点を統括するポジションには配置できず、そうなると、せっかくの幹部候補の人材を「ゼネラリスト」に育てることができなくなってしまう。

それゆえ、ローテーション人事によって、誰が海外統括部門の配置されることになっても困らないようにするためには、社員全員、あるいは少なくとも管理職クラスには、全員、英語ができるようになってもらわないと困るのである。

(2) 純血志向

もし、社内に適切な人材がいなければ、例えば、海外部門でマネジメント経験がある人を外から連れてくるという方法だってある。国籍にこだわらなければ、多国籍企業でマネジメント経験を積んだ人など、世界中には掃いて捨てるほどいるはずだ。

だが、日本においては、社外の人材、まして外国人を責任のあるポジションに付けることには抵抗を感じる企業も多い。そういう企業は、何としても、自社の生え抜きの人材で賄おうとするので、そうなると、社員には必死で英語を学んでもらわなければ困るという訳だ。

(3) 自前志向

テレビでドキュメンタリー番組などを見ていると、「日本企業の海外進出ストーリー」というのは、海外で暮らした経験もなく、英語も覚束ない日本人社員が、社命でいきなり海外に放り出され、たどたどしい英語で交渉をしながら、何とか海外に橋頭堡を築く物語、とたいてい相場が決まっている。

日本に進出している、いわゆる外資系と呼ばれる企業は、社長以下、ほとんどが英語のできる日本人を採用してビジネスをしているのに、海外に進出する日本企業には、現地のトップからスタッフレベルまで、多くの日本人が送り込まれる。

実は、これは(1)もしくは(2)の問題とも深く関連している。

一つには、本社で海外拠点を統括する部門に、英語できちんとコミュニケーションができる人材がいない場合、海外拠点には、日本語ができるスタッフが必須となるので、多くの日本人社員を送り込まねばならない。

あるいは、「自社の製品やサービスは、自分達じゃなければ売れない」という思い込み(もしくはおめでたい勘違い?)がある場合も、「現地スタッフなんかには出来っこない」ということになり、かくして、海外進出が加速すると、それに比例して、大量の日本人社員が海外に送られることになる訳だ。

この結果、日本的な組織体質を温存している企業ほど、否応なくすすむ経済のグローバル化の中で、「英語の公用語化ニーズ」が高くなるという、何とも皮肉なことが起きているように思えてならない。

一方で、英語教育ビジネスにとっては、大きな需要になる可能性もあり、企業が利益を内部留保に回さず、社員の英語教育に投資するならば、それもまた、景気刺激策としては有効と考えるべきなのだろうか。。。

議論ができる、というスキル

今回は橋下氏の大阪市政がテーマということで、「朝まで生テレビ」を久しぶりに見た。

といっても、時間が勿体ないので、録画しておいたのを2倍速で見たのだが、内容云々の前に、番組の制作側が「パネリスト」の選定基準を見直さないと、もうこの番組はダメなんじゃ無いかと思った。(もっとも、私はこの番組を毎回見ている訳ではないので、今回だけ、例外的に、こういうパネリストしか見つからなかったのかもしれないが。。。)

特に、反橋下本の著者ということで呼ばれたと思われる2人の学者さんは、ロジックを積み重ねて議論をするというスキル(もしくは習慣?)が無いとみえて、「議論」自体が成立しないのだ。だから番組がつまらない。

途中で、見るにみかねた東浩紀が、彼らに対して、きちんと反橋下論を展開できるよう、一生懸命、論点を整理してあげるという「助け船」を何度か出そうとするのだが、この2人は相手が何を言おうが、そんなことはお構いなしに、ただただ自説を展開することに終始するので、そこから面白い「議論」には、なかなか発展しないのだ。

一人で話すプレゼンならいざしらず、パネリストなら、ディスカッションという「キャッチボール」ができるスキルや素養を持った人を連れてこないと、討論番組としては非常につまらないものになってしまう。

特に日本人は、子供の頃から、議論とかディベートの教育や訓練を受ける機会が少ないので、この番組に限らず、パネルディスカッションをするなら、パネリストは、相当吟味して選んでこないと、聴いていて面白い議論を展開するのはなかなか難しいだろう。


頑張っているのに報われないのはなぜ?

サッカーやアイスホッケーなどの集団球技を経験した方なら分かると思うが、トップスピードで走っているフォワードの半歩くらい先に出された早いパスが通ると得点のチャンスは増す。
 
スルーパス

だが、このパスが成功するかどうかは、トップスピードで走っているフォワードが、さらに半歩、足を前に出して、このパスを受けることができるかどうかにかかっている。もちろん、このフォワードは既にトップスピードで走っている訳だから、体力的にはかなりキツイ。

「パスが遠い」「もう充分走った」と自分の判断を正当化して、終わらせることもできる。どちらを選択するかは、本人次第。もちろん、半歩足を前に出す選択をした方が、得点のチャンスは大きくなる。

これは仕事でも同じことだ。

だが、これまで一緒に仕事をしてきた多くの人たちを見ていると、面白いことに、諦めるという選択をした人も、自分では「充分に頑張った」と考えている人が多い。おそらく、パスが来た時点で、すでに充分に「キツイ」状態にある=「自分は充分に頑張った」と思わせるのだろう。

一方、監督やコーチ、あるいは上司・同僚といった客観的な立場から見ていれば、頑張って半歩を出した人とそうでない人の差は、ハッキリと分かるものだ。

だから、諦めるという選択をした人に限って、自分と他人の評価のズレがあると感じ、不平をもらすことが多い。「オレだって充分頑張っているのに、なぜアイツの方が評価されるんだ?」と。


やったことが無いことは出来ないのだ

以前、採用や人材育成専門のコンサルティング会社に頼んで、採用したい人材を適確に見分けるための面接手法について、特訓をしてもらったことがある。その時、徹底して言われたのは「人はやったことが無いことは出来ない」ということだ。


だから、「この会社に入ったら何をしたいか?」とか「どんな貢献ができると思うか?」といった「未来」に関する質問は、少なくとも、面接に来た候補者の適否を見極める上では、全く意味の無い質問であると言われた。

なぜなら、ちょっと気の利く候補者なら、「未来」のことについては、立て板に水のごとく、予め暗記してきた「原稿」をスラスラと話すことができるからである。

では、面接を受ける側は、こういう企業側の戦略に対して、どう臨むべきなのか。答えは一つ、「やったことがあること」を自ら努力して広げて、経験値を上げていくしかない。

特に気をつけたいのは、ルーティーン化された仕事をこなして、つい仕事をした気になってしまうことだ。ルーティーン化された仕事というのは、自分に任された領域であり、手順も熟知しているので、余り考えなくとも非常に効率的に仕事ができ、成果も出しやすく、そして、評価もされやすい。要するに非常に費用対効果が高いのだ。

一方、そこに安住してしまうと「やったことがあること」は広がらないのだが、残念なことに、多くの人は、本能的に変化を嫌う

会社や上司から、新しい仕事、新しいツール、新しいやり方にトライしてみることを命令あるいは薦められた時に、あなたはどう反応しているだろうか?

もし「それがうまくいかないと思われる理由」が、次から次に口をついて出てくるようなら、あなたも「ルーティーンに満足して、自分の可能性に自ら限界を定めている」という危険信号、と思った方が良い。


ファミレスの呼び出しボタンが日本をダメにする

最近、どこのファミレスに行っても、たいていテーブルに、こういう「呼び出しボタン」が置いてある。


「すみませーん」と大声を出してウェイター・ウェイトレスを呼ぶ必要がないので、客にとって便利なものではあるが、これは、顧客サービスでも何でもない。

ウェイターやウェイトレスたちが、ボーッとしていて、食事をしている客の状況に全く目を配っていなくとも、最低限のサービスが提供できるという点で、これは、店にとって大変に都合が良い道具なのだ。

だが、本来、「客の面倒を見ること」が仕事であるはずのウェイターやウェイトレスたちが、なぜボーッとしているのか?それは、彼らが、どんなに客を満足させたところで、自分達の給料は変わらないことを知っているからだ。

海外、特にアメリカに出かけた日本人旅行者には、すこぶる評判の悪い「チップ」だが、私は、店と客のWin-Winを実現するために、これほど効果的なシステムは無いと思っている。

ウェイターやウェイトレスは、できるだけ多くのチップを貰いたい一心で、常に客の様子に目を配り、「料理はどうか?」「飲み物は要らないか?」「お薦めのデザートはどうか?」としょっちゅう声をかけてくる。

かたや日本では、特に「ボタン」の置いていないレストランに入ると(結構なお値段を取るレストランであっても)、ウェイターやウェイトレスに気づいてもらうのに苦労することは珍しくない。彼らは店の一角に立ってはいるのだが、一体どこを見ているのか、なかなかこちらに気づかない。

「結果の平等」ばかりを求めるがゆえに、個人がどんどん努力や競争をしなくなる「自発的社会主義国家」ニッポン。外で食事をする度に、私は、日本人の「劣化」を感じて、暗澹たる気分に包まれる。。。


【読書メモ】電通とリクルート(山本直人)

本書ではTV広告などに代表される「プッシュ型」の広告を「発散志向広告」、今日の検索連動型広告などに代表される「プル型」の広告を「収束志向広告」と分類している。

そして、「発散志向広告」を成長の原動力とした電通に対して、「収束志向広告」の源流はリクルートにあるという時代認識のもと、両社の軌跡を追うことで、この二つのタイプ広告が、日本において、どのような成長と変化を遂げてきたのかを論じた一冊である。

リクルートが作り上げた「就職情報」や「住宅情報」によって、「広告」は「情報」として受け止められるようになり、検索連動型広告の起点もここにあるとしている。こうした情報誌を購入する人々が期待するのは、求める情報が探しやすく整理されていることであり、これは、まさに今日、検索エンジンに求められているものと同じである。

一方で、電通をはじめとする広告代理店が担ってきたのは、マス広告によって「憧れの景色」を見せることで、「いつかは買いたい」と思わせる理由を提供することである。そうした広告を成立させていたのは「許された嘘」であると筆者は言う。

たとえば、住宅情報では、駅から徒歩10分の物件を徒歩5分と書くことは許されないが、広告において、坂の上にある立地の家を「羨望の丘」と書くことは許される、といった具合である。

だが、1980〜90年代にかけて、バブルの崩壊や、その後の金融危機による景気の悪化をきっかけとして、人々は段々と「自分の買う物は自分で決める」ようになってくる。こうした消費者心理の変化の中で求められたのが情報誌であり、これがリクルートという会社の成長を後押しする要因となった。

こうした流れの中で、テレビの広告も「憧れの景色」を見せるものから、「購買ガイダンス」的な現実を見せるようになっていく。 本書の中でこの両者の例として紹介されているのが、この2つのテレビCMである。 

 【ホンダ:プレリュード】  

 【トヨタ:カローラII】

更に、今日ではテレビCMの最後に「○○で検索」といった表示がされることも普通になっているが、これによって「マス広告も情報の一部であることを告白した」と筆者は言う。

こうした流れは、確かに人々の要求や嗜好の変化に促されたものではあるが、一方で、情報化していく広告は「憧れの景色」とはほど遠い、身も蓋もないものになっているという思いを抱く人も多いだろう。

だが、本書の最後にある一節は興味深い。

グーテンベルグが印刷術を発明して最初に印刷したのは「聖書」と「地図」である。聖書は読むもので、地図は使うもの。リクルートは「使うもの」を作り続けて成功した。では、誰が聖書を作るのか?

そう、人々が「旅をしてみよう」と思わなくなれば、誰も「地図」を必要としなくなるのである。そこにこそ、「情報ではない広告」が果たせる役割が、まだまだ残されているということなのだろう。



ワークとライフって本当に「バランス」させられるの?

ちょっと時間が経ってしまったが、何ヶ月か前に日経新聞に掲載された就職特集を読んで、どうにも解せないところがあったので、思うところを書いてみたい。

就職人気ランキングが、おそらく「キミ達が知ってる日本の有名企業ランキング」とほとんど変わらないだろうというのは、まぁ、昔も今も一緒だから良いとしよう。(でも、後先を考えず、有名だっていうだけで、有効求人倍率が0.5倍くらいしかない大企業に誰も彼もが殺到するのは『沈んでゆくタイタニック号の1等船室に乗り込もうと競争しているようなものだ。』という意見もあるので、よ〜く考えた方が良いとは思うけど。。)

そして、どうにも解せなかったのは『重視する就職観』として『生活と仕事を両立』と答えた学生が男女とも最も多かったというアンケートの結果。だいだい、みんな、どういう状態になったら生活と仕事が両立したと言えるのか、本当に分かって言ってるのかなぁ。

やり甲斐も何も感じられない仕事だけれど、毎日5時きっかりには退社できる仕事。時間を忘れて残業しちゃうので、体はキツイけど、とっても楽しい仕事。心身ともに激しいストレスを受ける激務だけど、同世代の連中にはとても稼げないような金額がもらえる仕事。

などなど、仕事には色々あるわけで、しかも、そういう状況の中で、仕事をしている時間と、それ以外の時間の、どちらに楽しみを見つけるか、これは人それぞれだし、そもそも、ゼロか100かという話じゃないはずだ。

でも、そういうことは、仕事をしていくうちに、そしてまた、自分自身の気持ちや環境の変化によっても変わっていく。だから、実際に働いてみなきゃ、『オレ(アタシ)の生活と仕事は両立しているのか?』なんて、分かるわけはないのだよ。

もちろん、仕事はお金のためと割り切って、趣味に生きる人もいるだろう。それはそれで結構。一生のうち、かなりの時間を費やす仕事に楽しみを見いだせない人生というのが、どこまで幸せなのかな、と思わないではないが、それはそれで、一つの潔い選択ではある。

しかし、である。同じアンケートを見ると、仕事をしたい企業を選ぶ時に重視するのは『仕事が面白く』て『規模が大きい』とある。

なるほど、だんだん読めてきた。つまり、みんなが探しているのは「絶対に潰れない会社で、自分がやりたいと思う仕事だけをさせてくれる会社」ってことじゃないのか?

うーん、まぁ"Good Luck"とだけ言っておこう。(苦笑)


「ゼロディフェクト」の誤謬

この震災を機に、日本人に問われていることの一つは「リスクとの向き合い方」ではないかと思っている。



日本の安全管理・品質管理に関する技術レベルは世界的にみても高いと言われている。たぶん、そうなのだろう。だが、一方で、日本人は「リスクを管理すること」は苦手なんだと思う。

かつて、トヨタの品質管理の姿勢を表す代名詞ともいわれた「ゼロディフェクト」という言葉をご存じだろうか?これは文字通り、「ディフェクト」つまり「不良品」や「欠陥品」をゼロにするということだ。

もちろん、品質管理を行うにあたって「ゼロディフェクト」を目指すという姿勢自体は悪くない。だが「ゼロディフェクト」が本当に目標になってしまう、つまり「不良や欠陥があることは許されない」ということになってしまうと、その先に待っているのは、ヒステリックな思考停止だけである。

およそ人間が行う営みにおいて「絶対に問題が起こらないシステム」などあり得ない。実際、当のトヨタでさえ、これまでに度々リコールを行っている。だからこそ、不良や欠陥があることを前提に備えをしておくべきなのだが、「ゼロディフェクト」が目標になってしまうと、不良や欠陥があることを前提に物事を考えることが許されなくなる。

たとえば、今回の原発の件に関して、大気や水に含まれる放射線値が基準を超えたという事実が明らかになる度に、「基準は超えているが、ただちに健康に害を及ぼすレベルではない。」という声明が繰り返される。

なぜだろうか?

「原発は絶対に安全である」という前提でスタートしてしまった以上、放射戦値が基準を超えようが何だろうが、引き続き「原発は絶対に安全でなければならない」というロジックの中では、もはや、基準など無かったかのような議論が平気で行われてしまうのである。

だが、これを東電や原子力保安院、あるいは枝野官房長官の問題なのだ、という総括には同意しかねる。むしろ「絶対安全」と言わない限り、「そんなキケンがあるものを建てるのか?」と批判する我々日本人の姿勢が「不良や欠陥のあることを前提にものを考えること」を難しくしていると考えるべきではないだろうか?

その良い例が、かつてバブル崩壊で大量の不良債権を作り上げた銀行だ。高学歴者を大量に採用しているはずの銀行が、なぜ、経営の屋台骨を揺るがすほどの不良債権の発生を未然に回避できなかったのか。実は、その理由も「ゼロディフェクトによる思考停止」なのだ。

今から10年以上前の話になるが、私は銀行員として、アジアの企業やプロジェクト向けの融資を担当していたことがある。こうした融資は、調達金額が通常、数百億円規模と多額であるため、複数の銀行が集まってお金を貸す協調融資(シンジケートローン)という形が取られる。

その際に設定される金利は、対象となる企業やプロジェクトの「リスク」に応じて変動する。国家が保証しているような案件であれば、相対的にリスクは低いので、金利(=銀行の儲け)も低くなるし、プロジェクトが頓挫した場合には、直ちに返済にも影響がでるような案件はリスクも高いので、金利も高くなる。

欧米の銀行の場合、個々の案件のリスクを、たとえばA〜Eといった格付けをした上で、個々の銀行の規模や体力や、あるいは期待する収益に応じて、格付けランクごとに、どこまで貸せるかの上限を決めている。いわゆる「ポートフォリオ管理」というやつだ。だから、協調融資に応じるかどうかのを判断する際には、各案件の格付けが決まれば、たとえリスクが高くとも、貸出枠があれば、即OKと決まる。反対に、リスクの低い案件でも、そうした案件ばかりでは収益率が悪くなるので、貸出に応じないこともある。

これに対し、当時、多くの日本の銀行は「ゼロディフェクト主義」、つまり「我々が貸出を認める案件はすべてが優良案件でなければならない」という思想のもとに審査が行われていた。もちろん、これが正しく運用されていれば、邦銀は、相対的にリスクの低い案件には参加しない、ということになる訳だが、実際にはそうではなかった。

本来はリスクが高い案件でも「優秀な人たち」が寄ってたかって、膨大な資料を作り「この案件のリスクは高くない」ことを証明してしまうのだ。だから邦銀の審査には時間がかかる。それでも、当時、邦銀は海外の金融市場でも、貴重な資金の出し手と捉えられていたため、欧米の銀行は、邦銀が結論を出すのを待ってくれた。

こうして審査を通った案件はすべて「優良な」案件だから、当然のことながら、ポートフォリオ管理などは機能しない。だから「リスクは高くない」ことを正当化できるプレゼン力のある人が多い銀行あるいは支店ほど、本当ならリスクが高い案件を大量に抱え込むことになる、という訳だ。

今回の原発に関するやり取りを見ていると、「キケンがあることを前提にした議論が許されない」がゆえに、「不良債権」を抱え込み、バブルの崩壊に向かっていった、あの頃のことが思い出されてならない。

同時に、これは、多くの日本人が共通に抱える「欠陥」である、と受け止めてこそ、次への進歩につながるのではないだろうか?



競争なき「社会」と「会社」の行く末

かつて「キャリアアップ」という美しき誤解のもとに、数年おきに転職を繰り返していた頃、必ず目を通していたのは、日経新聞の日曜版だ。

日曜になると、外資系の金融機関やコンサルティングファーム、あるいはそうした企業への転職を斡旋する、いわゆる「ヘッドハンティング会社」が採用や、転職希望者の登録を募集する広告が大量に掲載されていたからだ。

その後、転職とは無縁の生活となり、「日曜版」の存在すら忘れていたのだが、この前の日曜日に偶然見て驚いたのは、求人広告の激減ぶりだ。

日経日曜版

確かに、日本の国際的な地位が相対的に低下する中、アジアの拠点を中国やシンガポールに移す外資系企業は増えている。また、リーマンショック以降は、外資系金融機関の採用も大きく減少しているという話も聞く。

だから求人広告も減っている、ということになるのだろうが、一方で、「日本の会社」は何をやっているのだろう。

先月発表された国税庁の調査によれば、日本には261万社もの法人がある。にもかかわらず、おそらく数としては圧倒的に少ない在日外資系企業の採用意欲が低下すると、それに連動して、転職市場も縮小するというのが、日本の姿なのである。

結局、いまだに日本企業の多くは純血主義・自前主義を捨てきれず、外部の有能な人材を登用してまで企業価値を高めることには関心が薄い、ということに他なるまい。

今日の日経ビジネスオンラインには、こんな記事が掲載されていた。


日本のサラリーマンは「会社が潰れそうになるギリギリまでは、どんなにデキの悪い社員でもクビにしてはならない」という極めて社会主義的な法律に守られている。しかも、自分の身を脅かすかもしれない外部の人材の登用は頑なに拒み、サラリーマン「ムラ」の中で安穏としていても毎月決まった日には給料が振り込まれてくる。

それでも足りずに「自分からアピールしなくても、上司の方からきちんと目配りして評価をして欲しい」とは、いつから日本の会社は「巨大な幼稚園」になったのか。

評価をして欲しいなら、それに見合ったパフォーマンスを出す。それでも正当に評価されていないと思うのであれば、正々堂々と議論する。それでも自分に対する評価が変わらないなら、「それなりに」仕事をして会社に残るか、それがイヤなら、自分を正しく評価してくれる仕事や職場を自分で探しに行く。

そんな単純な理屈が通じない「社会」や「会社」が、この先も長きにわたり繁栄を維持できると、みな本気で信じているとすれば、おめでたいと言うしかない。

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